《 井上しの 1 》
「いつまでにする?」

時々、聞きたくなる。
いつやめる?
彼の前で口にしたことはないし、これからも言おうとは思わない。
気持ちは時間で区切れない。それなのに、つい聞いてみたくなる。
型落ちのエアコンから流れ込むよそよそしい匂いに、古ホテル本来の湿気がなじみ、満ちる。2人で来るのはこのホテルの1階の、この部屋だ。最初に入ったのがここだった。
いつも空いている。
外観、電灯、車庫のシャッター、短い廊下、閉まる寸前に金属音を立てる重い扉、シンプルというよりラブホテルには相応しくない殺風景な室内—、総じて幽霊屋敷のムードをまとう。
山肌に沿って連なる2つの集落の狭間、木立のなかに幽霊屋敷は建っている。築40年近いといつか聞いたような気がする。
ただの、音がない部屋。
ここにも私が望む静寂はない。
ほしい静けさ。外的な音ではなく、たぶん心についての。
渇いている。どこに行けばよかったんだろう。
はじめから欠けてた?
これが苦しいということ?
忘れちゃった。苦しいも寂しいも麻痺してしまった。静寂は望めない。確信してもなお、ここは私の特別な場所。

彼とは9カ月になる。
熱帯夜だった。
射抜くように私を見つめるので、打ち明けたことのない戯言を思わず口走ってしまった。
「私の夜になって」

あの夜、もし私が誘わなかったら、やっぱりこんな間柄にはならなかっただろうか?
もし、彼が転勤することになったら、私は間柄を続けるために会いに行くだろうか?彼はそれを許すだろうか?
相応な女と彼が接近する時は引かなければならない。もし、そういう理由なしに、唐突に去ろうとしたら彼はどうするだろう。私を責めるだろうか?呪いのような言葉を投げつけてくるだろうか?

頭の中は仮定ばかりで、途方に暮れてしまう。姉と違い、子を持たない私は確信めいたことをたったの1つも自分のものにできなかったから仕方ないと思う。うめちゃんみたいに強くなれない。自分にとって正しくないとわかっていることほど断ち切り難い。そればかりか甘い夢のような幻覚を見る。

私が理由なく去ったとして、未だ若い彼は、思いつく限り憎しみの言葉を浴びせてくるかもしれないが、呪いなどかけない。
私は狡い。汚れてしまって取り返しがつかない。彼と私は違う。
呪いをかけるのはいつも女のほうだ。私がもういらないという時まで、彼が永遠に私から離れられなくなればいい。真綿の肌触りで雁字がらめにして手放さないだろう。店に通ってくるなじみ客が連れに紹介するような、おだやかで根の優しい“しのママ”ではない。本当の私は、自分の醜さのために心眼のようなものを自ら潰してしまい、感情が麻痺して、いまは苦しみさえわからなくなった化け物だ。
でも思う。

結婚しようがしまいが、子を生もうが、愛されていようが親友がいようが孤独だろうが、多少の差はあっても、女はみな怪物になっていくしかない。たぶん、若さが失われゆく、初めの瞬間から。
どうせ悲しい宿命なら、せめて自分の思い描く化け物になってやろう。

私のほうが惚れている。
きっと、捨てられる。
汚いところを見られたくない。自分を貶めるほどに私は嫉妬深い。それならいっそ。
「そろそろやめよっか」

[7回]
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